母校である大阪府立今宮高校の同窓会の会報へ寄稿しました。
母校の先生から「いまの仕事について、会報に寄稿しないか?」と連絡をいただき、うれしい反面、何者でもない、いつまでもフラフラとしている自分が何を書けばいいのだろうかと悩んだのですが、振り返ってみると、高校卒業後も今も、今宮高校で学んだ教えを活かして、私なりにトライアンドエラーを繰り返した結果、今の仕事に辿り着いているので、ここに至るまでのその道のりについて寄稿させていただきました。
最近、自分のやりたいことをちゃんと言葉にして伝えられるようにならないとだめだなと感じることが多かったので、この機会に寄稿文にすこし加筆したものを、このnoteにも掲載しました。少し長めの文章なのですが、よかったらお盆休みのおともにご覧いただけますとうれしいです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 今宮高校で特に印象に残っているといえば、選択科目授業『私達が立っている場所』(以下『私達』)。『私達』は、『「である」ことと「する」こと(丸山真男)』『君たちはどう生きるか(吉野源三郎)』『パニック(開高健)』『マイケル・サンデルの白熱教室』などの教材をもとに、グループに分かれ読解・発表を行う授業です。目の前のひとつひとつの文章について、筆者が伝えようとしていることはなにか、他の解釈はないか、自分ならどう捉えるか…。あらゆる角度からグループのみんなとディベートします。授業中だけでは時間が足らず、放課後居残りしたり、ときには難波のドトールに場所を移し、答えのない問いに対してみんなと議論を交わしました。この授業を通して、目の前の様々な事柄に対し、自ら問いを立て試行錯誤する習慣がつきました。この習慣は、高校卒業後の自分の人生にとても大きく影響しています。
 幼い頃からとにかくイラストを描くことが好きで、ごく自然に将来はイラストレーターになろうと思っていました。高校卒業後の進路を決めるタイミングが、確か『私達』の授業を受けているときで、イラストが好きだから、イラストを専門に学び、イラストレーターを目指すという進路で果たしていいものだろうか。もっとほかに別の選択肢がないだろうかと考えるようになります。自分はどんなイラストを描くのが好きなのか、改めてよく考え直してみたところ、作家の作品としてのイラストというよりも、自分自身が学び体感したことを、自分なりに工夫して絵と文字でまとめレポートすることだということに気がつきました。これを仕事にするには、何を学び、どんな職種につけばいいのだろうか。なにを、どの角度から描けばいいのだろうか。まずは、幅広くものごとを見る目を養うことが大事なのではないかと思い、大学では生活デザイン学科を専攻。道具・住宅・グラフィックなどのデザインの技術を身につけながら、ものの価値観について学びました。また在学中に、絵と文字で発信することを実践するべく、旅先で記した絵日記などを小冊子にまとめマルシェやイベントで販売。はじめて自分の作品がお金になることを体験し、とても感激したことを覚えています。ただ出店の回数を重ねるごとに、より多くの売り上げをつくるためには、より多くの数をつくらなくてはいけないことを思い知り、疲弊。際限のない数の勝負をしなくてもいいような、一つ一つの内容により独自性があるようなものをつくるにはどうすればいいのだろうかと考えるようになります。就職活動では、兼ねてより愛読していた雑誌系の出版社にエントリー。ポートフォリオも兼ねた渾身の雑誌のパロディを3冊つくって面接に臨むものの、「編集とデザインどっちをやりたいのか?」と聞かれ「どっちもやりたいです」と答えたところ、3次面接であえなく不採用に。
 大学の卒業制作では、自転車屋台を制作しポップコーンの移動販売を行いました。販売促進のためのフリーペーパーや動画をつくるうちに、お店をひとつのメディアとして捉えることができるのではないかということに気がつきます。描くことや発信すること自体を仕事にするのではなく、なにか自分の目が届く範囲で小さな商いを行い、それを絵と文字で発信すればいいのではないか。大学卒業後は、古い家を飲食店やシェアハウスにリノベーションし、施工・運営を一貫して行う会社に就職。毎日ツナギをきて、建物の解体、大工仕事、左官など、建物づくりの現場を経験しました。その頃パン屋巡りに夢中になっていて、かねてから薪窯をつくりたかったという社長と意気投合し、社内でベーカリーカフェ事業を立ち上げることに。築100年の古い空き家を改装し、薪窯を手作りし、パン焼きの研究に励みました。お店がオープンした後は、店長として薪窯でパンを焼き続ける日々が始まります。一生懸命つくった思い入れのある建物で、自分で考えたレシピで焼いたパンをお客さんに買っていただく。毎日薪の煤と小麦粉にまみれて心底大変だったけど、会社の環境にも恵まれ、とてもやりがいのある仕事でした。しかし、毎日パンを焼くことに必死で、絵と文字で発信活動をする余力は全くなく、お店運営と発信活動を両立することはとても難しいということを思い知ります。
このままではいけないと思い、一度会社を休職し、1ヶ月ほど実家に帰省しました。久しぶりに地元をゆっくり散歩してみると、家の近所に古い長屋がたくさん残っていて、それらを活かした小さくて魅力的なお店が増えていることに気がつきます。そんなお店たちをスケッチし、地元のまちを紹介する手書きのマップを制作しました。まちを歩いて観察し、1枚の紙に手描きの絵と文字を用いて、そのまちの魅力をまとめること。マップづくりは、自分のなかでとてもしっくりくるものがありました。何よりも自分がつくったマップが、まちにいい作用をもたらす可能性があるということにとても胸が高鳴りました。そのタイミングであるお店から「うちのまちのマップをつくらないか?」という連絡を受け、せっかく挑戦するのであれば思い切りやってみようと会社を退職。そのマップの依頼を手掛かりに、日本各地のまちを巡りはじめました。ご縁が繋がり、少しずつマップの仕事の依頼が増えてくるなか、今度は「よいマップとはなんだろうか」という問いが自分の中で生まれます。定番スポットや有名なお店を紹介するような観光マップももちろん大切ですが、新型コロナ感染症によるパンデミックをきっかけに、社会全体の暮らしへの価値観が変わったことを感じ、まちに住む生活者のためのマップや、そのまちの日常を紹介するようなマップが、これからの社会には必要なのではないだろうかと感じるようになりました。どうすれば、まちの暮らしに近づくことができるだろうか。そのためには、そのまちに住む幅広い世代の人たちが集うような場所に携わってみたいと思い、かねてよりよく訪れていた長野県松本市にある100年続くまちの銭湯が求人していることを知り、松本市に移住。銭湯で湯を沸かし、番台で常連さんたちと世間話をしながら、まちのマップを自主制作しました。このときのマップづくりの経験が、いまの仕事への取り組み方の姿勢に大きく影響しています。自分で実感しながら制作すること。それを魅力的に工夫して伝えること。そのために必要なら、企画も取材も編集も入稿もするし、建物の解体もするし、左官もする。レンガも積み上げるし、防空壕の掃除もするし、薪を焚べカンパーニュも焼くし、湯も沸かすし、家だって引っ越すし、ラジオ体操だって通うし、できることはとにかく何でもやってみる。
現在はマップづくり以外にも、建物の図解、アニメーションやマンガ、パンフレットの制作などを行っています。絵と文字でなにができるか日々試行錯誤中です。美しいものをただ美しいというのではなく、なぜ美しいのかを自分なりに実感できるまで近づくこと、一見なんでもなさそうな景色に魅力をみつけ、その魅力が老若男女だれにも伝わるような朗らかな表現方法を考えることを大切にしています。
今宮高校時代の忘れられない授業といえばもう一つ、今号の自彊会会報へ寄稿しないかと連絡をくださった早崎先生の書画の授業です。早崎先生は見本をみせず、筆に身を任せて自由に描くことを重んじていました。それまでずっと書道教室に通い、手本通りの整った字を書くことを習っていた私にとって目から鱗の出来事で、絵と文字で表現することが楽しくて、夢中になって筆をとっていたことを覚えています。書画の授業で学んだことが、今の自分の仕事にそのまま繋がっていると思います。
 ユニークで幅広い選択科目のなかから自分の進路に合わせて授業を選ぶ総合学科の特色、校則のない自主規制の制度、『磨け知性 輝け個性』というスローガン。思えば今宮高校では、常に主体性をもって動くことが求められていたように思います。正解のない問いに対して、どうやって向き合っていくのか。星の数ほどある選択肢から、何を選び、どう活かすのか。今宮高校の3年間で身につけた、常に試行錯誤を続けて、自由に表現する姿勢を大切にしながら、これからも自分なりの生き方や働き方を探していきたいと思います。

Back to Top